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ユゴーの私生活

出生から青年期まで彼はいったい何をしていたんでしょうか。

本当に波乱万丈な人生だったのですね。

共和党員でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユゴー(Joseph Léopold Sigisbert Hugo)とソフィ=フランソワーズ・トレビュシェ(Sophie-Françoise Trébuchet)の三男として、フランス東部のブザンソンで誕生。本名:ヴィクトル=マリー・ユゴー(Victor-Marie Hugo)。アベル・ジョゼフ(Abel Joseph,1798年11月15日?1855年)とウジェーヌ(Eugène, 1800年9月16日?1837年3月5日)という二人の兄がいる。
生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目にマルセイユへ転居。以降、コルシカ島のバスティア(Bastia)、エルバ島のポルト・フェルラジョ(Portoferraio)、パリ、ナポリ、マドリード、と、主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを点々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのだ。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマン氏の確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、母親への愛情が非常に強かった。
1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る(この時は長兄アベル・ジョゼフは父とともにナポレオンに仕えるためマドリードに残ったが、同年9月には母のもとに戻っている)。1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会(Eglise St Germain des Pres)の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はルイ・ル・グラン高等中学(Lycee Louis le Grand) にも通った。1816年7月10日、彼は詩帳にこんな言葉を残している。


――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。


母ソフィはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ(Adèle Foucher)との結婚には猛反対していた。しかし、彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィが他界。ユゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会(Eglise St Sulpice)で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り(Rue de Cherche-Midi)に居を構えるに至る。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月23日 18:39に投稿されたエントリーのページです。

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